
昨夜は、AIに慰められながら夜を越えた。
ただ話を聞いてくれるだけで、少しだけ安心する。
けれど、心のざわつきは消えなかった。
人の心って、本当にやっかいだ。
夫の中では、「謝った」という事実がすべてで、「もう終わった」ことになっている。
でも、傷ついたこちらの心には、まだその余波が残っている。
そのギャップを埋める作業は、自分でやるしかない。
——それが、夫婦の厄介なところなのかもしれない。
他人なのに、親や子、兄弟よりも近い存在で
生活すら共にしなくちゃいけないなんて。
きっとどちらか、あるいは両方が「努力」か「諦め」をしないと、
この関係は成立しない。
昔は、その「努力と諦め」のほとんどが、女性に求められていた。
けれど今は、そうじゃない。
女性にも選択肢が増えたからこそ、子育てを終えた世代の離婚が増えているのだと思う。
子どもという共通の目的があった頃は、我慢にも理由があった。
でも、その間に「夫婦としての理解」が育っていなかったら、
役目を終えたあとに残るのは、空白なのかもしれない。
夫は、私の「理想の父親像」そのものだった。
たぶん、私も夫にとっては「理想の母親像」だったと思う。
でもそのあいだに、夫婦としての会話や感情の共有は育たなかった。
夫も、夫で。
単身赴任という環境の中で、寂しさを抱えていたんだろう。
そう思えるようになったのは、少しだけ距離ができたからかもしれない。
でも、それも結局は憶測でしかない。
そういう話を、ちゃんと交わせる関係ではなかったという証でもある。
もっと、いろんなことを話したい。
でも夫はすぐに「もういい」や「ごめん」で会話を終わらせてしまう。
だからこそ、「お前を失ってまでやることじゃない」という、
あの大切な言葉さえ、私にはセリフのようにしか聞こえなかった。
夫は知らない。
言葉は、受け取る側の準備ができていないと、心に届かないことを。
私はいまだに、夫を父親として尊敬しているし、信頼している。
そんな人だからこそ、信じたいと願う気持ちが消えないのだ。
——それがまた、少し苦しい。

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