【1000分の48日目】会社移転と、私の出口戦略
朝の光がレースカーテンを透かして、部屋に淡く差し込んでいる。
外からは蝉の声。季節はもう、初夏。
室内はひんやりとしていて、窓外の熱気が嘘のようだった。
机の上には、今日発送予定の封筒が一つ。
会社の書類と一緒に、私は一冊のノートをそっと滑り込ませた。
封筒には「親展」の文字。
でも、ちょっと天然な事務員さんが開封してしまわないよう、赤字の付箋で《絶対に開けないで》と書き添えた。
今回は普通郵便ではない。
2、3日後には届くだろう。
会社の移転――。
その言葉の重みに、私は唇を結んだ。
電話口の向こうで、行政書士の先生が静かに説明してくれた。
「建設業の許可はね、県をまたぐといったん失効になるんですよ」
「え?取り消し、ですか……」
「はい。そして新しい県でまた一から取り直す必要があります。許可が下りるまでの間は、新規契約はできません」
一瞬、目の前がかすんだ。
「じゃあ、空白の期間はどうなるんですか……?」
「“大臣許可”を取れば、全国どこでも対応できるようになります」
「それって……取れるものなんですか?」
「県内でもね、持ってるのは十数社だけですね。かなり珍しいですよ」
私は思わず、笑ってしまった。
「ちょ、かっこよすぎるw……」
こんな時でも、心のどこかがざわつく。
夫の名前が、そんな“肩書き”で表に出たら――。
少しだけ、誇らしい気がした。
どうせ悩むなら、動きながら悩もう――。
私はそのまま、先生との面談の予定を入れた。
直接、きちんと話を聞いておきたかった。
おかしな話かもしれない。けれど、私は夫の没落なんて望んでいない。
だってそれは、子どもたちの未来にまで影を落とすことになるから。
だからこそ、私は動く。戦略的に、静かに。
まず、会社を移転して、それから――
心の中でそうつぶやき、コーヒーをひとくち含んだ。
夫はまだ、「旧車の収益金を孫にあげる」とは明言していない。
今はまだ、私の出方をうかがっているだけで、それを匂わせている段階。
でも、将来「あの時、言っただろ」と言い出す可能性は大いにある。
そういう“ズルさ”が、夫にはある。
この件は、私にとって「致命的なこと」。
その時を想像しただけで、胸の奥がきゅっと痛んだ。
気づけば、涙がにじんでいた。
進学資金や学費などの援助で孫と関わることは構わない――。
そうノートや手紙で伝えてあるけれど、夫から明確な答えは返ってこない。
話が伝わる・伝わらない以前に、まず土俵にすら乗ってくれないのだ。
だったら、その時にダメージを受けても、すぐに逃げられるようにしておく。
その「準備」に燃える今だけが、鬱々とした気持ちを紛らわせてくれる、唯一の時間だった。
子どもたちから任されている仕事も、そろそろ引き継ぎの準備を進めよう。
本やアルバムも個人別に整理して、それぞれに渡せるようにしておこう。
そして――
夫の帰ってくるこの家から、私の形跡を少しずつ消していこう。
覚悟は決めたけれど、きっと最初は泣く。
でも、夫のいない未来も、いずれは“普通”になる。
どんなに望まない未来でも、
心をすり減らしてまでそこにとどまるよりは、
自分らしく生きられる場所を選びたい。
まずは、この移転をしっかり終わらせよう。
そのあいだに、自分のこれからを考えていこう。
――まだ、時間はたっぷりある。
ノートを封筒に差し込む。
ぴたりと口を閉じ、両手で押さえた。
それが、私の静かな宣戦布告だった。
いざとなれば、この土性骨の座った気質が、
きっと私を支えてくれる――そう信じている。
いつも応援ありがとうございます。
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